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世界の経済と社会を脅かしている慢性疾患の増加。その背景には、予防医療の絶対的な不足があります。本稿では、AIによる「対話型医療」、「学習型医療システム」の構築、そして英国発のデジタル医療イノベーションを紹介します。
2025年、世界の成人9人に1人が糖尿病を抱え、その9割は急速に増えている2型糖尿病です。その原因としては、長年の不適切な食生活(高カロリー・低栄養価食品の過剰摂取)、運動不足、肥満が挙げられます。そこから浮かび上がるのは、予防医療が機能していない現実です。世界の心血管疾患患者が約6億4,000万人にのぼっていることにも、同様の背景があります。身体疾患にくわえ、精神疾患の問題も増加しており、身体の健康や生活の質(ウェルビーイング)、就労能力に影響を与えています。特に高齢者や社会経済的に不利な立場にある層では、複数の慢性疾患を抱える人が増えており、より裕福な層と比べて10~15年も早く、複数の慢性疾患が重なって現れることがあります。
これは単なる公衆衛生の問題ではなく、経済的な危機でもあります。働く世代が複数の慢性疾患を抱えると、社会の経済負担は増大します。多くの国で平均寿命が延びる一方で、健康に過ごせる期間は短くなっており、病気による休職や離職の増加、子どもの数の減少につながっています。労働者の高齢化から生産性が低下しているところに、年金や社会福祉への支出負担が重なり、経済をさらに圧迫しています。英国予算責任局は、公衆衛生の改善と労働生産性の向上こそが、経済を支える基盤であると強調しています。
その一方、治療法、とりわけAIを活用した創薬および医薬品開発は急速に進んでいます。しかし、処方薬の30~50%は指示通りに服用されておらず、健康被害や医療資源の浪費を招いています。2型糖尿病などの慢性疾患では、食事や運動といった生活習慣も改善しなければ、期待通りの服薬効果は上がりません。こうした状況を打破するために期待が高まっているのが、日常生活のリズムに合わせて食事、運動、睡眠、服薬などの健康的な習慣を支援する、対話型AIやバイオセンサーのようなテクノロジーです。
ヘルステック市場は活況ですが、健康不安を抱える健常者向けの“消費者商品”では、社会が求める予防医療につながりません。ウェアラブル医療機器だけでも、2030年までに世界市場は2,500億ドルに達すると予測されています。しかし、これらのデバイスおよびそれらが生み出す膨大なデータのほとんどは、医療記録と連携できず、仮に連携できたとしても、たまに診察を受ける程度では、生活習慣の改善や病気の予防にはつながりません。医療は、断続的な受診から連続的かつ実効性のある対話へと軸足を移す必要があります。対話型AIやマルチエージェントAIには、その変革を担う条件がすでに整っています。
患者中心の「対話型医療」へ移行すれば、複数の疾患に統合的に対応することができ、安全性、治療効果、費用対効果も向上します。たとえば、重度の精神疾患の治療薬の多くは、副作用として肥満や高血圧、糖尿病、腎疾患、心筋梗塞や脳卒中などを引き起こします。そのため患者は精神科医、循環器医、糖尿病専門医、腎臓専門医、プライマリケア医など、複数の専門医を受診することになりますが、精神面や心血管・代謝系の健康を日常的に支える仕組みが欠如しているため、社会全体の平均よりも約20年早く亡くなるのが現状です。また、糖尿病、慢性肺疾患、慢性腎疾患の患者には抑うつ症状が多く、服薬やセルフケアに影響を及ぼしています。こうした現実には、これまで十分に向き合われてこなかった医療ニーズが集約されています。今こそデジタル医療イノベーションで、医療の重点を移行する必要があります。従来型の医療を脱却し、統合的な「ヘルス・アバター」型を取り入れることで、患者との日常的な対話から、よりタイムリーで包括的かつ予防的な知見を引き出すことができます。
近年、生成AIや大規模言語モデルの進歩により、数千の言語や方言に対応し、音声で対話ができる対話型エージェントが登場しています。AIによる多言語対応は、公共サービス窓口の標準インターフェースとして急速に普及しており、インドの銀行業界などではすでに広く取り入れられています。音声によるインタラクションは、医療分野にとって重要な可能性を秘めています。文字情報の理解や入力操作を前提に設計されたヘルステックは、一般的な読み書き能力にくわえ、デジタルや医療に関するリテラシーが十分でない患者にとって、利用の障壁となりがちです。しかし、音声を介することで、こうした困難は乗り越えられます。
このように障壁を下げることは、医療ニーズの増大、不平等の拡大、限られた資源といった課題に直面する医療システムを、予防へと方向転換させる鍵となります。医療AIは、その設計段階から公平性を念頭に置く必要があります。「読む・入力する/テキスト」から「聞く・話す/音声」へインタラクションが進化すると、医療へのアクセスは大きく広がります。マルチエージェントAIはさらに、最も支援を必要とする個人や家族に、医療および社会福祉の資源を的確に届けることができます。医療や福祉の提供者間でケアを連携させることで、早期かつ統合的な予防ケアを実現します。
私たちは今、急速に進化するAIで「学習型医療システム」の構想が現実化する転換点に立っています。私たちリバプール大学市民健康イノベーションラボ(Civic Health Innovation Labs:CHIL)は、英国の医療システムや企業と連携し、患者、医療提供者、地域社会を循環的なフィードバックで結ぶ「3段階学習システム」を構築しています。このモデルでは、患者とAIとの日常的な対話から、従来の医療では考えられなかったデータや意思決定が生まれることが期待されています。
患者や家族が求めているのは「点のケア」だけでなく「線のケア」
55歳のルーシーの生活を思い浮かべてみてください。彼女は線維筋痛症、2型糖尿病、慢性腎臓病、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、慢性痛、不眠など、複数の慢性疾患を抱えています。さらに、認知症の夫の介護もしています。自身の病気と介護の負担で働くことが難しく、経済的にも困難な状況です。最近、地元の店で続けていたパートの仕事も失ってしまいました。強めの薬を組み合わせた治療は、一定の効果はあるものの、消化器系の不調や思考の鈍り、服薬がきちんとできているのかという不安をもたらしています。
体調や服薬管理のためにアプリやデバイスを使っていますが、互いに連携していません。ネットで役に立つ情報を探しても、内容が食い違い、何を信じればよいのかわからなくなります。体調の波で外出が難しい日が続くと、気分が落ち込み、働くことがさらに難しくなります。
これは特別なケースではありません。イングランドでは15%の人が複数の慢性疾患を抱えています。ルーシーは十分に支えられている実感を持てません。長い待ち時間、一貫性のないケア、冷たく感じられる対応に当惑し、自分の声が届いていないと感じています。かかりつけ医は親身に対応していますが、事務作業に追われ、専門医との連携も不十分です。何がうまくいき、何がうまくいっていないかを振り返る余裕もありません。ルーシーにもかかりつけ医にも「話を聞き、学び、それに合わせて行動する」仕組みが必要です。
患者・医療機関・社会の有機的連携を実現する対話型医療
学習型医療システムの鍵となるのは、患者、医療提供者、地域社会という3階層でデータを生成、活用、共有するマルチエージェントの枠組みです。
患者用エージェントは、ルーシーの服薬管理を手助けし、食事、運動、睡眠、仕事、社会活動などを記録します。彼女はキッチンに置かれたスマートスピーカーを通じて、「相棒」のAIとやり取りします。プライベートな会話ができるように、そのスピーカーはレーダーによる身体マッピングで本人を認識し、周囲に他人がいないかまで確認します。このAIエージェントは、症状を振り返る手助けをし、受診や相談が必要なタイミングを知らせ、自己検査キットの使用を促し、服薬のリマインドを行い、医療アプリなどのデジタル療法を探す手伝いをし、診察時に持参するメモも一緒に作ってくれます。
医療提供者用エージェントサービスは、ルーシーのAIエージェントから得られるデータと診療記録を統合し、包括的な情報を医療チームに提供します。この提供データは、症状の主な変化、臨床上の所見、検査結果、治療内容などをタイムラインに、一目でわかるようにまとめています。そこにリスク計算や治療管理ガイドラインを組み合わせれば、共同で治療方針を決めることができます。たとえば、効果より副作用の方が大きいことが判明すれば―こういったことがわかるのも、ルーシーの症状や睡眠に関するデータがあってこそですが―その薬をやめるという判断もできます。
地域社会用エージェントは、患者用エージェントや医療提供者用エージェントから得られるデータを、プライバシーに配慮した形で活用できるようにします。システム管理者はそれに基づいて、医療資源を最適に配分します。たとえばルーシーには、処方薬を早めに見直す、夫のために地域の認知症支援を紹介する、新しい疼痛治療の臨床試験で参加できそうなものを見つけるといったことができます。こうした支援が適切に連携されることで、ルーシーは仕事に復帰し、社会とのつながりを取り戻し、精神状態、睡眠、生活の質を改善することができます。
これら3つの階層を結びつけることで、医療は継続的に学習するシステムとなります。患者は自身のケアにより主体的に関わるようになり、医療提供者は状況に応じた、より柔軟な対応ができるようになります。医療システム全体としても、資源配分の精度を高め、治療成果を向上させ、無駄を削減するとともに、研究知見を生み出し、それを活用できるようになります。
リバプール発の学習システムをネットワーク化する試み
理想的には、ある医療システムで得られた進展は、アルゴリズムやデータ、評価手法、研修制度を共有して、他の医療システムが共に学べるようにすべきでしょう。そのような連合型の学習ネットワークを設計し、実際に機能するものとして検証することは容易ではありませんが、私と同僚たちは CHILにおいて、まさにこの課題に取り組んでいます。11
CHILは、リバプール市がCOVID-19に対応するためにデータを活用した経験から生まれました。同市は、ラテラルフロー検査を用いた大規模自主検査を世界に先駆けて実施し、重症化による入院を25%減少させることに成功しています。13 この成果を支えたのは、わずか1ヶ月で住民の4人に1人が検査に参加するという地域住民の積極的な姿勢と、先進的なデータ共有の仕組みです。英国で初となるリバプール地域市民データ協同組合(Liverpool City Region Civic Data Cooperative)は、最近も住民とともに「データとAIに関するコミュニティ憲章(Community Charter on Data and AI)」を共同策定し、信頼できるイノベーションの実現を呼びかけています。
精神疾患が増加の一途をたどる中、CHILは英国のメンタルヘルス・ミッション(Mental Health Mission)の実証サイト(www.MRIC.uk)も運営しており、「メンタルヘルス・アバター」や学習システムの開発を進めています。子どもの3人に1人が貧困の中で生まれ、多くの家庭が複合的な困難に直面しているリバプールにおいて、こうしたイノベーションは選択肢ではなく、不可欠です。人口約270万人のNHSチェシャー&マージーサイド管轄地域では、子どもを持つ世帯のうち、社会経済的に最も厳しい状況に置かれた8%が、地域の医療・社会福祉資源の約34%を消費しています。14
CHILは現在、診察と診察の間に患者からの自己申告データを収集し、そこから得られた洞察を臨床ワークフローに還元する「対話型医療」の仕組みを構築しています。たとえば、メンタルヘルス・ミッションと連携している、マージー・ケアNHS財団法人が新設した治療抵抗性うつ病専門クリニックでは、患者がアプリを用いて睡眠や日々のできごとを記録すると、AIがそれらのデータを臨床医向けにまとめます。医療提供者の段階では、自然言語処理モデルや大規模言語モデルがアプリと臨床記録の両方のデータを解析し、なぜ特定の治療法が処方された(またはされなかった)のか、臨床医の判断にどの程度の確信があったのか、さらにリスクの低い治療法はなかったのか、といった点を明らかにします。こうして得られた知見やアルゴリズムは、国によってリバプールに新たに設置されたメンタルヘルス・セキュアデータ機構(Mental Health Secure Data Environment)のサポートを得て、国立医療・ケア研究機構( NIHR)のメンタルヘルス橋渡し機構(Mental Health Translational Research Collaboration)を通じ、全国的に共有されます。
対話型医療と学習型医療システムを世界へ
最終的な目標は、世界中の学習型医療システムをネットワーク化し、さまざまな人々や地域、医療現場から得られる知見を結集して、予防医療と人口全体の健康を推進することです。英国では、国が主導するデータおよびAIイニシアチブと地域の医療システムイノベーションを連携させ、そのビジョンの達成に向けて、小さいながらも重要な一歩が着実に積み重ねられています。
世界各地のデータが、その緊急性を明確に示しています。平均寿命が延びている一方で、健康に過ごせる期間や生産的に働ける期間は減少しています。現状のままでは、医療は経済的に破綻します。
断続的な診察を中心とする形から、予防重視で継続的な対話型へ、医療のあり方を変えていかなければなりません。この変革は、新しい治療法を迅速に実用化するだけでは実現できません。患者や医療提供者、システム管理者、公衆衛生担当官との相互作用から継続的に学習する、複数のAIを結びつけることによって初めて可能になります。こうしたシステムの構築は、技術的課題であると同時に、文化的そして組織的課題でもあります。
政策立案者や医療システムのリーダーは、多様なニーズに対応できるAIシステムを後押しし、予防医療を強力に推進する必要があります。医療提供者、政府、テクノロジー企業は、データ共有、規制設計、そして予防医療につながるヘルステックの導入において、力を合わせていかなければなりません。
対話型AIやマルチエージェントAIの技術は、すでに予防医療を前進させる実用段階にあります。その必要性も、これまでになく高まっています。あとは、社会全体が、予防を医療の標準に据えるのだという、強い意思を持つことです。データから継続的に学習する医療システムは、人々の暮らしと経済の双方をよりよい方向へ導いていくでしょう。
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