著者:
ヘレナ・ボスキ(Helena Boschi)
職場における応用神経科学研究を専門とする心理学者
英国心理学会会員。神経科学と会社生活を結びつけ、職場における心理学の実践的知見を適用するユニークな心理学者。グローバル企業で上級職を歴任し、営業、マーケティング、国際関係、組織設計、リーダーシップ開発など幅広い分野で活躍した経歴を持つ。
2025年7月29日 | 所要時間: 11分
「変革」「破壊的変革」「イノベーション」。未来の変化を語る言葉は、すっかり日常に定着していますが、曖昧な言葉は脳にとってよいものではありません。
そんな言葉に、私たちははたして愛着を持っているのでしょうか?
人間の脳は不確実性の匂いがするものを避けるようにできています。脳という、私たちにとって最も重要でありながら普段は意識されない器官は、、頭の内部で闇に包まれ、さまざまな感覚信号が届くのを待ち受けています。信号を受け取ると、脳はその意味を見極め、どう行動すべきかを判断します。そして、これらの信号を素早く統合し、その意味と取るべき行動について明確なイメージを私たちに提供します。
脳が受け取る感覚情報は、大部分が不完全なものです。過去の知識や経験が参照資料となり、脳は「そこにあるはずのもの」を予測します。この予測が感覚入力と一致すれば、脳はすべての情報を素早く効率的に処理できるのですが、予期しないことや未知の事柄は「潜在的なリスク」と見なされ、脳は警戒状態に入り、ストレス反応を引き起こします。それが、私たちが積極的に推進しているような好ましい変化や新しい取り組みであってもです。歴史的に見れば、「異なる」ということは「危険」を意味していたのかもしれません。
現代においても、脳はまだ古いシステムを作動させています。ちょっとしたことにでも脳は警鐘を鳴らし、命に真の危険が迫っているようなストレス反応を起こすのです。たとえば、自分の知らないことをほのめかされた場合、その言葉を脳が自動的に好きになるとは限りません。実際にはその逆で、脳は私たちが自ら作り出した概念そのものから、私たちを守ろうと活発に働きます。
では、なぜ私たちは、脳を悩ませるような要求を出し続けてしまうのでしょうか。
その問いに答えるには、まずビジネスにおける人の扱い方がどのように生まれたのかを振り返る必要があります。起源は18世紀の産業革命にさかのぼり、当時は労働環境を改善するための基準が導入されました。その後、数世紀にわたり、焦点は業績評価、データ管理、コンプライアンス、そして従業員のモチベーションやエンゲージメントへと移っていきました。こうした取り組みは、キャリアや幸福の支援を掲げ、最善を尽くして改善されてきましたが、脳のストレス反応という根本的な問題は依然として残っています。脳のはたらきを調べ、実際に何が起きているのかを理解できるようになったのは、比較的最近のことだからです。
私たちの要求を脳がどう処理するのか徐々にわかってきた今こそ、ビジネスリーダーにも社員にも、何を求めるべきかを考え直すチャンスです。言葉は、あらゆるビジネスにおいて最も重要なツールです。まずはリーダーが発する言葉が、チームの幸福度、行動、そしてパフォーマンスにどのような影響を与えられるのかを考えてみましょう。
“
リーダーから社員、部下への最高の贈り物は、組織がどんな「変革」を目指すのかをわかりやすく伝える、シンプルで明確な言葉です。
多くの企業に、組織文化に深く根づいた社内用語があります。社内用語は聞こえがよく、帰属意識を高めます。私たちは本能的に群れを好み、その一員であることに安心を覚える生き物ですから、同僚と同じ言葉を話したくなるのです。だからこそ、人は最新の流行語やバズワードに飛びつき、「アイディエーション」、「レバレッジ」、「プッシュする」、「サークルバック」、「ピボット」といった格好のいい言葉を使いたがります。わざわざ平凡な言葉を使いたいとは、なかなか思えないでしょう。
目まぐるしく変化する世界で、リーダーシップの言葉は、3つの要因によって複雑化します。
ひとつ目は、エネルギーを節約し労力を最小限に抑えるため、慣れ親しんだもを選び、いつもどおり、あるいは型どおりの行動をとりたがる脳の性質です。変化を起こすには、たやすく効率のよい方法として築いてきた、旧来のやり方を手放さなければなりません。簡単にいえば、私たちは不確実な未来のために、これまでうまくいっていたやり方を手放したくないものなのです。
ふたつ目は、脳が予測と判断のために明確さと確実さを求めることです。変革やトランスフォーメーションを語る抽象的な言葉(例:「最適化」「適正化」「再設計」「トランジッション」「パラダイムシフト」)は、あまりに漠然としています。
そして3つ目は、次から次へと新しい課題が出てくる世の中で、昨年まで、先月まで、あるいはつい先週まで有効だったシステムやプロセスが、突如として待ったなしの見直しや再調整を迫られることです。変革を目的としたプログラムに至っては、始めた瞬間にもう時代遅れということさえあります。今求められているのは、素早く方向転換し、次々と現れる新しい『最新』に対応できる力です。
以上のことは、変化推進を担うリーダーにとって何を意味するのでしょうか。
この質問に対する単純明快な答えはありません。リーダーシップが単純明快でないのは、おそらくそのせいでしょう!
コミュニケーションをよくとること、早い段階で人々を巻き込んでいくこと、よいロールモデルになること…など、「リーダーがすべきこと」は多く語られていますが、ここでは脳科学に基づいた視点でお話しします。いつもと違う内容で、びっくりするようなものもあるかもしれません。!
言葉はシンプルに
リーダーから社員、部下への最高の贈り物は、組織がどんな「変革」を目指すのかをわかりやすく伝える、シンプルで明確な言葉です。各人に具体的にどんなことを期待しているのか、はっきりと伝えることが重要です。「シナジー」、「レバレッジ」といった言葉はもちろん、「変革」も避けましょう。これらの言葉で具体的で実用的、かつ実行可能な結果が表されるのであれば別ですが、ものごとを極めて視覚的に捉える脳の性質から考えると、できるだけ描写的な言葉を選んだほうが、相手の脳に理解・処理しやすくなります。画像やグラフィックを使うとさらに効果的です。
期待には応えすぎないように応える
脳は、信頼できる相手のことは予測できますが、期待を上回ってくる相手については予測が追いつきません。これは、脳の報酬系の問題です。脳は報酬を予期すると、「やる気を起こす」物質・ドーパミンを分泌します。ドーパミンは、学習、注意、意思決定、習慣形成に関わる物質で、仕事を途中で投げ出さないよう活動を維持するはたらきもあります。ほかの神経化学物質と同様、ドーパミンは過剰でも不足してもいけません。バランスが崩れれば、気分や行動、健康全般に悪影響を及ぼすため、一定の濃度に保たれる必要があります。期待どおりの結果が得られると、ドーパミンのレベルは安定します。しかし、期待が裏切られると、ドーパミンは低下し、「失望」の状態を引き起こします。これは私たちが本能的に避けようとする状態です。しかし、実は本当の問題が起こるのは、期待を上回る結果が得られたときです。ドーパミンが分泌される感覚は心地よく、急上昇は一見よいことのように思えます。しかしドーパミンの急激な上昇は、燃えつき症候群につながる可能性があります。今日超えた期待が、明日には「当たり前」になって、期待がどんどん高まっていき、こなさなければならない仕事がどんどん増える。当初は期待もされていなかったことまで、やらないと「約束不履行」とみなされてしまうリスクを、自ら作ってしまう可能性すらあります。予測不能な世界では、人々は一貫性を求めます。「期待の範囲内で応える」ことが、その一貫性をもたらします。
日々の小さな努力で不確実性への耐性を高める
コロナ禍の余波にくわえ、AIによる変化、地政学的な不安、地球温暖化、経済不安といった問題を抱え、未来は不確実性に満ちています。脳は問題をコントロールしたがりますが、できないものはできません。しかし人間は、あらゆる局面で適応力を高めるシステムを、自らの内につくることができます。カギとなるのは、自分の安全地帯から抜け出すため、毎日小さな努力を積み重ねること。些細なことで構いません。何か新しいことをしてみる、いつものパターンを破ってみることで、脳は固定回路から抜け出すことを学びます。リーダーシップは、いかに迅速に成果を達成したかで評価されることが多いですから、リーダーのみなさんに、効率が確立されたこれまでのやり方をやめ、別の方法を試せというのは酷かもしれません。しかし、予期せぬ事態への対応力は、小さな課題を自分に課し、学習のフラストレーションを乗り越えていくことで鍛えられます。ちょっとした挑戦を続けることで、脳を変化に強く育てれば、組織レベルでの変化も容易になることでしょう。
「社会的手抜き」を防ぐ
ほかの人より熱心に働く人は、どこにもいます。グループが大きくなるほど、「社会的手抜き」の可能性が高まります。これは、20世紀初頭にフランスの技師マックス・リンゲルマンによって初めて説明された概念です。リンゲルマンは綱引きを見て、グループ全体の努力の総和が個々人の努力の総和よりも小さいことに気づきました。つまり一部の人は、手を抜いてほかの人に重労働を任せているのです。社会的手抜きを防ぐ最善の方法は、グループの規模を小さくし、個々のチームメンバーの働きがよく見えるようにして、それぞれの貢献と責任に対する期待を高めることです。
選択の自由を錯覚させる
前述のように、人間の脳は意思決定をコントロールしていると思いたがります。私たちは選択をすることで、自己のアイデンティティを定義・確認しているのです。また、選択の自由によって主体性と自律性を感じられるので、意思決定はウェルビーイングにとっての重要な要素でもあります。自ら選択をすることで、自分が行動に責任を持った、意思決定に関わったと感じられれば、新しいことや違うことをしようとする意欲も湧いてきます。逆に、何かに圧倒されたり、制御する力がないと感じたりすると、ストレスが生じ、慣れ親しんだものを求めて古いやり方に戻ろうとしてしまいます。重要なのは「選択肢がある」という感覚です。たとえ選択肢があらかじめ決められていても、構いません。リーダーは、どんな選択肢を提示するかを決められますが、選ぶ余地を部下に与えることが大切です。
仕事に終わりをつくる
ものごとが「完了」することが、脳には必要です。「完了」の敵は、どんな組織にも蔓延する「シャイニーオブジェクト症候群」です。これは、どれほど善意を持ってプロジェクトを推進するリーダーも、別の新たな魅力あるプロジェクトを目にすると、そちらに気を取られてしまうという現象です。さらに悪いのが、部下に何かを最後までやり通させないと悪影響が生じることを、リーダーが理解していない場合です。これは、「ツァイガルニク効果」と呼ばれる現象で説明されます。脳が完了しなかった(またはできなかった)仕事を忘れず、くり返し思い出す現象で、リトアニアの心理学者、ブルーマ・ツァイガルニクにちなんで名づけられたものです。ツァイガルニクはこの現象を、カフェのウェイターが、支払い済みの注文については忘れてしまうのに、未払いの注文はしっかり覚えていることから発見しましたが、誰でも一度は、未解決の問題が心にずっと引っかかるのを経験したことがあるでしょう。完了に伴う達成感が得られないと、大きなフラストレーションが生じ、自己評価が低下することさえあります。完了することで、脳は未解決だった問題を片づけ、人は解放されて次へ進むことができるのです。起動修正をしょっちゅうしなければならないような仕事においても、リーダーが仕事を小さなプロジェクトに分け、ひとつひとつの達成までの時間を短く区切り、小さなゴールも毎回達成を祝って、小さく完了させていくことが、成功の秘訣です。
「変化が加速している」とか「変化は今後も続く」という話は、毎日のように聞こえてきます。しかしここで、リーダーにとっての最後の希望となるのが、「脳は自身の能力では対応しきれないものに出会ったとき、学習の必要性を受け入れる」ということです。するとニューロンが再編成され、脳は強化されます。自身を専門家ではなく、初心者であると認めたとき、脳は好奇心を持って新しい機会に目を向けられるようになるのです。今、私たちの生きる世界は、しょっちゅう思わぬ変化が起き、不安に満ちています。リーダーと部下は今こそ力を合わせ、絶えぬ試行と探求によって、最善の行動指針を見つけなくてはなりません。今は機会が無限に溢れ、発見を共有する時代であるともいえます。リーダーがすべての問いに答える必要はありません。むしろ、知らないことを自覚しているリーダーのほうが、知っているふりをしたリーダーよりもはるかに強いのです。